最近では、DVDやオンラインでの講座、セミナー、講習というものも増えてきました。
YouTubeでの無料番組、そこから有料の番組、商材への誘導というのも増えてきましたね。
そこではさまざまなテクニック、手法が散見されています。
かつては、そこに行かなければ拝むことすらできなかった技術が、クリック一つで、わずかなお金を支払いさえすればいつでも何度でも観ることができる。
それも、国内に限らず、世界中で。
実際、素晴らしい技術、およびその技術を使う施術者というのは実在していますし、一部であまり知られていない方でも一瞬にして世界中にその存在を知らしめることが可能…。
少し前までは夢物語でしかなかったことが、いまや当たり前に感じられるようになりました。
また、最近では「素人が…」という感じの番組、商材が増えてきています。
いままで施術やセラピー系統の技術に触れたことがなくても、「このテクニックさえあれば…」という感じの広告を打って出しています。
実際に、それである程度の結果を出した方がいるからこそ、ですが…その少し先に思いを馳せると、なかなか厳しい現実が、個人的には予見されます。
人間は一般的に、物事を安易にとらえやすく、そして都合よく解釈する傾向があります。
この傾向を、かつての人々は重々承知していた事もあり、武術でもお茶でも、稽古事には「術」ではなく「道」という言葉を用い、無闇に安易な方向に行かないよう予防線を張っていました。
そうやって研ぎ澄まし、どこまでも洗練させていくからこそ、一つの動作、ひと間の作法にも幅や深み、独特のいわゆる「アジ」が出てくるようになっていく。
インスタントに、すぐに使える、役立つ。
応急、救急的な技術ではそれが確かに必要で、その場面では「アジ」もへったくれもありません。
その一場面を切り取ってしまえば、「役に立つ」「誰でもできる」事はアドバンテージかもしれません。
そういう思いもあって、2024年の「接心」では、主に身体均整法に伝わる「救急操法」を題材に、技術をお伝えしてきました。
まあしかし、実際の場面で、それが「使える」かどうか。
ボクは、ボク自身の経験と、さまざまな分野の方々の成り行きを見聞し、コツコツ、当たり前のように日々研鑽していくことが結局は早道だなと思っています。
昨日よりも今日が、ほんのわずかでも「上手(じょうず)」になっていることを自らの心の中に祈念しながら、淡々と日々自らを磨いていく…誰かに褒められたい、見せたいなどではなく、ただ自らの納得のために。
そういう姿勢を、ボクは何より尊重いたします。