人生のこれからを、ひらく
人生にはときどき、
これまで通用していたやり方が、ある時からなぜか通用しなくなる、そんな時期が訪れることがあります。
もちろん、努力していないわけでもなく、偏った人生を歩いてきたわけでもない。
むしろ、それなりに頑張ってきたはずなのに。
仕事にも、情熱を傾けてきた。
家族や友人たちとも、真摯に向き合ってきた。
いくつもの問題を乗り越え、自分なりのやり方も身につけてきた。
…それなのに、
ある時から、今までと同じように頑張っているのに、なぜか前へ進まない…。
身体には、それまでなかった変化が現れてきた…
これまで気にもしなかったことが、妙に気になるようになった…
仕事に、以前ほど意味ややりがいを感じなくなってしまった…
人間関係的にも、親、子ども、夫婦、そして、これから年齢を重ねていく、自分自身…。
そうしてふと、あるとき立ち止まります。
「私はこのまま、この生き方を続けていていいのだろうか?」
…これは必ずしも、
何か「問題」が起きたということではありませんし、
これまでの生き方や考え方が間違っていた、ということでもありません。
もしかすると、人生の節目。
これまでの生き方が、ひとつの役割を終えようとしている。
そういう時期というのは、このように訪れてくるのかもしれません。
私は、そうした人生の節目を、
「生き方の移行期」
…そのように捉えています。
ここでいう移行とは、別人になることでも、すべてを捨てて人生をやり直すことでもありません。
シンプルに、同じ人生の中で、これまでとは少し違う状態へ移っていくこと。
今までの生き方、身につけてきたものを否定するのではなく、必要なものは持ったまま、もう役割を終えたものから離れ、次なる場面へ移っていく…そのような意味でいっています。
「いま」というのは、社会そのものも大きく変わろうとしているように、私は感じています。
生成AIをはじめとする技術の進化によって、これまで人間が長い時間をかけて身につけてきた知識や技術の価値も、急速に変わり始めています。
たとえば、
「仕事」という局面においても、昨日までの「できる人」の条件が、明日も同じとは限らない。
働き方、会社、教育、家族、健康、人とのつながり方…私たちを支えてきたこれまでの「当たり前」そのものが、少しずつ揺れています。
だからといって、時代に合わせて自分を作り替えればいい、という話ではありません。
私は、むしろ逆だと思っています。
外側が大きく変わる時代だからこそ、
自分の、何が本当に“ 自分 ”なのか。
そこが、これまで以上に問われるのではないか。
過去の正解を修正しながら生きていくだけでは、追いつかない。
「どうすればもっと上手くやれる」という問いだけでは、おぼつかなくなる時がやってきているように思います。
そうした時期に必要なのは、
何かを変えること、加えていくことではなく、自分という人間の在り方そのものを見つめ直すこと。
問いそのものを、そこへ移していくことなのだと思います。
それは私自身もまた、例外ではありません。
同じ転換点に、私もまた、立っています。
始まりは、一つの問いでした
私は割と長い間、人の身体と心に関わる仕事をしてきています。
もちろん、最初から何か大きな体系をつくろうと思っていたわけではありません。
現在の、これから明らかにしていく「しくみ」が、最初から頭の中にあったわけでも、ありません。
始まりは、もっと具体的なことでした。
日々の施術(その当時は「セッション」とは呼んでいません)の中で出会う諸々。
たとえば、
慢性的に続く激しい咳…
長く残り続ける身体の不調…
あるいは、
親から受けた激しい虐待の経験のように、時間が経っても容易には薄れない心の苦しみ…
それらを目の前にした時、私の中に強烈に、一つの問いが自然に生まれてきました。
こうした方々が、本当に楽である状態とは、どのような状態なのだろう。
振り返ってみれば、ある意味で私は長い間ずっと、この問いを追い続けてきたのかもしれません。
最初は、体の探究でした
探究の最初の入口は、体からでした。
それは、一般的なイメージでいえば、「整体」に近いでしょう。
ただ、私の実践してきたそれは、
身体の歪みを直すことでも、
左右のバランスをきれいに揃えることを主眼としたものではありません。
人間の体には、本来、自ら整おうとする力、生きようとする力があります。
何かを外側から付け加えるのではなく、
その人の内側にすでにある力を喚起し、そしてイキイキとした働きを始める。
それを邪魔しているものがあるなら、その時に必要なところだけに働きかける。
そうして、その人自身の力が動き始める。
その結果として、歪みが直る、バランスが整うなどの現象が起きるのです。
だから私にとって体を整えることは、痛みが減った、動きやすくなった、体が軽くなった、というところだけで終わるものではありませんでした。
その整った体で、もう一度、自分の人生を力強く生きられるようになること。
そこまで含めて、身体へ働きかけてきました。
けれど、長く実践を続けていると、体だけを見ていては届かないものがあることも分かってきました。
体は変わった。
それなのに、また戻っていく。
体の状態だけを考えていては、どうしても説明できないことも起きます。
そこで、必然として対象とする範囲は「心」へと広がっていきました。
次に観えてきたのは、「問題」と心の関係でした
そこから生まれたのが、『コア・セッション』です。
『コア・セッション』では、心、具体的には、人間の認識するという働き、機能を扱います。
ただし、
私が観ようとしたのは、「どうすれば、その問題を解決できるか」ということではありません。
認識でいえばもう少し手前、「なぜ、それを今も「問題」と感じ続けているのか」、という地点です。
出来事が起きる。
記憶が残る。
相手がいる。
過去の経験が蓄積されている。
もちろん、それらが人を苦しませることはままあります。
しかし、人を長く縛り続けているのは、往々にして、出来事や記憶そのものだけではありません。
怒り、恐れ、悲しみ、後悔、許せなさ、「こうでなければならない」という思いであったりします。
その対象へ向け続けられている心のエネルギー、それを、広い意味で「執着のエネルギー」と捉えています。
『コア・セッション』では、
過去をなかったことにするわけでも、記憶を消すわけでもありません。
その対象へ向かい続けている力が弱くなっていくことで、出来事そのものは変わらなくても、以前と同じ力では自分を縛らなくなることがあります。
思い出せる…けれど、とらわれない。
知っている…けれど、そこへ戻らなくていい。
心は、本来はどこまでも無色にして透明、何もないけれど全てはそこにあります。
『コア・セッション』をつくった本来の目的は、単なる問題解決ではありません。
執着から離れる。
必要以上に物事にとらわれなくなる。
そうなっていくことで、
心の自由度そのものが高まっていくのです。
自らが本来は自由なのだ、と。
最初から、そこを観てきました。
それでも、本人だけでは分からないことがあった
体を観る。
心を観る。
それでもなお、どうしても拭いきれないものがある。
そういうケースに出会うようになりました。
なぜだろう…しばらく、私にも分かりませんでした。
そしてある時、一つの視点が生まれてきました。
「これは、いま生きている本人、そこだけを見ていても分からないのではないか」
人は実際は、「自分一人」でできているわけではありません。
親がいる、祖父母がいる、家族、血縁がある。
そしてそのうえで、自分が生まれる以前から続いている関係があります。
人間は、
完全に独立した一個体として突然この世界に現れるわけではありません。
さまざまな関係の中に生まれ、その影響を受けながら生きています。
本人自身の経験だけでは説明しきれないこと。
本人の意思だけでは説明しきれないこと。
そうしたものまで視野に入れることで、初めて見えてくるものがありました。
そこから生まれたのが、『DNAセッション』です。
ここで私が見る範囲は、体から心へ、そして、一人の人間を取り巻く関係へ…と広がっていきました。
そしてさらに、その先
それでも探究は、そこでは終わりません。
私たちは普通、現在の苦しみの理由を過去に探します。
子どもの頃の経験。
過去の人間関係。
失敗。
喪失。
傷ついた記憶。
そうやって、過去が現在に影響していることは、確かにあります。
けれど、長く人と関わっていると、「過去が現在をつくっている」という一方向の考えだけでは説明しきれないことにも出会います。
むしろ、
これからどこへ向かおうとしているのか、それにより今起きていることの意味が変わる。
そう感じる場面があります。
未来へ進もうとしているその時だからこそ、問題として浮かび上がる。
次へ移る時期が来たからこそ、それまで何ともなかったものに違和感が生まれる。
そう捉えた方が自然に理解できることが、あります。
いまの自分を基点に、
縦軸に過去の自分、未来の自分。
横軸には自分の内面、自分の外面。
それらを別々に観るのではなく、一つの流れとして結んでいく。
そこから生まれたのが、『ユニティ・セッション』です。
こうしていま、振り返ると、私がやってきたのは技術を増やすことではありませんでした。
ずっと、同じ問いを追っていただけだったのかもしれません。
こうした方々が、本当に楽である状態とは、どのような状態なのだろう。
そして、
目の前のこの方が、本当に自由に生きられるようになるには…
その問いを追っていった結果、
身体から、心へ。
心から、関係へ。
関係からさらに、過去や未来、自分の内面外面の結び目へ。
観点を少しずつ広げていきました。
これは言い換えれば、
一人の人間を見る解像度が、少しずつ上がっていった。
そう言えるかもしれません。
そして、ずっと変わらなかったこと
観点は広がりました。
方法も増えました。
けれど、実践の中で大切にしてきたことは、大きく変わっていません。
一つは、
介入は最低限にすること。
こちらが相手を変えてしまうのではない。
答えを与え続けるのでもない。
その人自身がすでに持っている力が動き始めるようにする。
それは、本人の力を喚起することでもあり、同時に必要以上に手を加えないということでもあります。
そして、もう一つは、
ともあれ、一切を自分へ向けること。
これは、「すべて自分が悪い」という意味ではありません。
人生には、理不尽なことがたくさんあります。
傷つけられることもある。
自分ではどうにもできない現象、環境もある。
それでも、
「あの人が変わらなければ」
「会社が変わらなければ」
「家族が変わらなければ」
「過去が違っていたら」
と考え続けている限り、自分の人生のハンドルは、自分の外側に置かれたままです。
だから、ともあれ、自分へ戻す。
自分はどうするのか。
何を選ぶのか。
何を手放すのか。
これから、どう生きるのか。
変化の主体を、自分の側へ取り戻す。
そしてもう一つ。
体と心を分けないこと。
体が変われば、認識が変わることがあります。
認識が変われば、体が変わることがあります。
さらに言えば、
本当に体が変わると、認識も変わります。
本当に認識が変わると、体も変わっています。
一見すると身体の症状に見えるものの奥に、長く抱えてきた認識や執着があることもあります。
心の苦しみが、体の状態として現れていることもあります。
体と心は、別々の対象というより、同じ一人の人間に現れている、異なる表現ともいえます。
長く実践すればするほどに、その感覚は強くなっていきました。
分ける必然性の消失
それでも私は長いあいだ、
体を扱う「量子」と、心を扱う「コア」を、別々のセッションとして提供してきました。
その方が、受ける方にとって分かりやすかったからです。
体のことで困っているなら、体から。
心のことで困っているなら、心から。
入口を分けることには、十分な意味がありました。
そして、
分けていたからこそ、それぞれを深く探究することもできました。
それは必要な過程だったと思っています。
ただ、
ここまで来たいま、以前よりも深く感じる問いがあります。
本当に、このままでいいのだろうか?
もっと言えば、
体と心、自分と他者、個人と家族、過去と現在、現在と未来…
私たちは、理解するためにこうやって世界を分けます。
体、心、仕事、家族、過去、未来、分けることで、物事は理解しやすくなります。
けれど、
現実の人間は、そんなふうには分かれていません。
どういうことかというと、
たとえば、仕事に行き詰まっている人がいるとします。
それは、「本当に」仕事の問題なのでしょうか?
もしかしたら、内面的な自信の問題なのでしょうか?
もしかしたら、単に体が疲れているだけなのかもしれません。
あるいは、親との関係が影響しているのかもしれません。
過去の失敗にとらわれているのでしょうか?
それとも…
これまでの生き方そのものが役割を終え、次へ進む時期が来ているのかもしれません。
でも、実際は、そんなにキレイに分けられるものではありませんよね?
一人の人間の中では、
体も、感情も、思考も、記憶も、人との関係も、人生の時間も、同時に動いているのですから。
それなら最初から、「これは体の問題」「これは心の問題」…と特に決めなくてもいいのかもしれません。
まず、
いま、この人に何が起きているのか
そこから始めればいいのではないか。
つまり、
分ける必然性が、そこにはもうすでに無くなってしまっています。
量子とコアを分けておく理由も、もうそこにはありません。
そこから、「ひらく」という言葉が生まれました
ここまで来て、私は一つのことを考えるようになりました。
全部を一つにまとめたいのではない。
何もかもを扱いたいのでもない。
もっと単純なことです。
最初から分かれてはいない。
体と心、認識と感情、自分と他者、個人と縁、過去と現在と未来。
それらを別々のパーツとして見るのではなく、一人の人間に現れている、さまざまな関係として観る。
必要なら、身体から入る。
必要なら、心や認識を観る。
必要なら、その人を取り巻く関係へ視野を広げる。
必要なら、過去や未来という時間軸まで観る。
けれど、最初から「どこに入る問題なのか」を決めない。
人を、関係として観る。
それが、いま私が
「ひらくしくみ」
と呼んでいるものの出発点です。
そして、その考え方を実際の個人セッションとして形にしたものを、
「ひらくセッション」
と呼ぶことにしました。
なぜ、「ひらく」なのか

「ひらく」ということ。
「ひらく」という言葉には、いくつもの意味があります。
目がひらく…
心がひらく…
身体がひらく…
可能性がひらく…
道がひらく…
未来がひらく…
運がひらく…
閉じていたものが、動きはじめる…
見えなかったものが、見えるようになっていく…
選べなかったものが、選べるようになっていく…
『ひらく』という言葉には、
そんな「これから」が始まる感覚が含まれているように思います。
「治す」でもなく、「変える」でもなく、「自由にする」でもない。
私が長く実践を続けてきて感じるのは、
人は、外から何かを足されることで変わるワケではない、
ということです。
必要以上に固まっていたものが、ほどける。
止まっていたものが、まためぐり始める。
すると、
その人自身の中から、次の動きが現れてくる。
体が動き出す。
心のとらわれが薄くなる。
それまで見えなかった選択肢が観えてくる。
他者との関係が変わる。
これからの生き方が、少しずつ観えてくる。
私は、その状態を表す言葉として、
「ひらく」
という日本語に、ピンッとくるものがありました。
何か特別な人になるのではない。
誰かに正解を与えてもらうのでもない。
その人自身の中に、もともとあるものが動き始める。
そして、次が、ひらいていく。
「つらいものを、どうすれば楽にできるのか」
という問いから始まり、
身体が楽になること、苦しみが減ること、過去への執着が薄れること…もちろんそれらは、とても大切なことです。
けれども、ここまで長く人と関わってきたなかで、新たな形での問いが生まれるようになりました。
楽になったとして、その方はこれから何を生きるのか。
症状が軽くなる、心配が減る、執着から離れる、身体が動きやすくなる…それらは終着点ではなく、むしろ、そこから先が肝要になります。
自由になった体として、何をするのか。
軽くなったとして、何と関わるのか。
過去から少し自由になった自分で、どんな未来を生きるのか。
そこから、人生のこれからが動き始めます。
私自身、
長い間ずっと、体を整える仕事をしてきたと思っていました。
心を整える仕事をしているとも思っていました。
けれど、振り返ってみると、もしかしたらそのどちらでもなかったのかもしれません。
私がずっと関わってきたのは、
一人の人間が、自分の人生の主導権を取り戻していく過程
だったのではないだろうか。
いまは、そんなふうに思っています。
だからこれからは、「何かが悪くなった人」だけが来る場所でなくてもいい。
病気ではない。
特別な悩みがあるわけでもない。
人から見れば、それなりにうまく生きているように思える。
仕事もしてきた。
家庭も築いてきた。
努力もしてきた。
それでも、自分の奥で、「このままでいい」ようには、思えない。
次へ進みたい。
けれど、何をどうすればいいのかは、まだ言葉にならない。
言葉にして誰かに言う、言わないに関わらず、こうした方々はいま、増えています。
人生のこれからを、ひらいていく
まさにいま、そうした時期に差し掛かった方々と、出会っていくような気がしています。
もともと一つだったものを、もう一度、一つとして扱う
「ひらくしくみ」は、新しい技術をいくつも足し合わせてつくったものではありません。
身体、心、認識、関係、過去、現在、未来…それらを「治す」「変える」ためのものでもありません。
必要以上に固定されているものがあれば、必要なところから、ほどく。
止まっていたものがあれば、本人自身の力が、再びめぐり始めるのを支える。
そして、こちらが答えを決めるのではなく、その人自身が、自ずとひらいていく。
そのためのひとつの考え方であり、そのための実践です。
その奥には、長年の実践から育ってきた理論体系として、
「認識工学」
があります。
ただ、
入口で難しいことを知る必要はありません。
大切なのは、一人の人間を分けて観ることなく、そのままを観ること。
別のいい方をすれば人を、関係として観ること。
それだけです。
だから今、私は「ひらく」という言葉を選びました。
新しいものを始めるためではありません。
もともと一つだったものを、もう一度、一つとして扱うために
そして、私自身まだ見たことのない、人生のこれからを生きるために。